LOGIN五人は、放送室へ続く廊下を走った。
朽ちた床板が足の下で悲鳴を上げる。雨に濡れた靴が滑り、壁へ肩をぶつけても、誰も立ち止まらなかった。天井のスピーカーからは、巨大な録音機の回転音だけが流れている。
からから。
からから。
乾いた音は、急かすように少しずつ速くなっていた。
「透!」
澪の声が廊下の闇へ吸い込まれる。
返事はない。
先頭を走る朔の懐中電灯が、突き当たりの扉を捉えた。黒ずんだ防音扉。上部には人の腕ほどの幅しかない細長い網入りガラスがあり、その向こうで赤い灯りが明滅している。
放送室だった。
扉の手前には、透の録音機が落ちていた。
床を滑ったらしく、角に新しい傷がついている。画面は割れていない。録音表示だけが赤く点滅し、入力波形が大きく上下していた。
朔はそれを拾わず、取っ手へ手を掛けた。
動かない。
「透、開けろ!」
肩を押し当てる。
扉は僅かにも揺れなかった。
悠斗も横から取っ手を掴み、力を込める。
「内側から鍵が掛かってる」
「共通鍵は?」
美月が問う。
「ある」
悠斗は工具箱を床へ置き、内ポケットから小さな鍵束を取り出した。錆びた札がいくつも重なり、その中から細長い真鍮の鍵を選ぶ。
「管理会社に無理を言って借りた。校舎の旧共通鍵だ。合う保証はない」
「早くして」
奈々香の声が震える。
扉の向こうから、荒い呼吸が聞こえた。
ひゅっ。
喉の奥を塞がれたような短い音。
「透!」
美月が網入りガラスへ顔を寄せる。
「聞こえる? 扉から離れて!」
返事はない。
悠斗が鍵を差し込む。
途中までは入った。
しかし、最後の数ミリで止まる。悠斗は角度を変え、ゆっくり左右へ揺らした。
「錠の中が歪んでる」
「無理に回すな」
朔が言った直後、扉の向こうで何かが倒れた。
机の脚が床を擦り、金属製の器具がぶつかる。
透の息がさらに荒くなる。
悠斗は歯を食いしばり、鍵を強く捻った。
真鍮が乾いた音を立てて折れた。
鍵の先端が錠の中へ残る。
「くそっ!」
悠斗が扉を拳で叩いた。
「折れた!」
「どいて」
朔は床へ落ちていた消火器を持ち上げた。
安全栓は錆びつき、使用できそうにない。それでも赤い鉄の容器は重い。朔は両手で抱え、網入りガラスへ側面を叩きつけた。
鈍い衝撃音。
ガラスへ白い亀裂が走る。
もう一度。
細かな破片が室内へ飛んだが、内部の金属網が残り、穴は拳一つ分にも広がらなかった。
朔が三度目を打ち込む。
奈々香が耳を塞いで身を縮めた。
美月は割れた箇所から中を覗き込み、息を呑んだ。
「透がいる」
澪は美月の肩越しにガラスへ顔を寄せた。
放送室の中は暗かった。
窓には厚い遮光幕が下ろされ、外の光は入らない。古い放送卓のつまみと計器が、赤い表示灯に照らされて浮かんでいる。
部屋の中央に、巨大なオープンリール式録音機があった。
二枚の金属製リールが高速で回転し、黒い磁気テープを巻き取っている。
その前で、透が机へ片手をついていた。
背中を丸め、もう一方の手を首元へ差し入れている。立っているというより、机へ身体を預けて辛うじて倒れずにいる状態だった。
「透!」
澪がガラスを叩く。
透の肩が跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。
首には、黒い録音テープが巻きついていた。
一周ではない。
何重にも喉へ食い込み、濡れた皮膚を締め上げている。テープの端は録音機へつながり、リールが回転するたびに短く引かれていた。
きり、きり、と薄い磁気テープが軋む。
透は指を差し込み、外そうとしている。
だが、引けば引くほどテープは食い込み、皮膚へ細い赤い線を刻んでいた。
「止めろ! 機械を止めろ!」
悠斗が叫ぶ。
透は放送卓の方へ手を伸ばした。
指先は再生停止ボタンまで届かない。
身体が大きく揺れ、机へ肘をつく。
「聞こえる? テープを引っ張らないで!」
美月は医療鞄を開きながら叫んだ。
「指を一本だけ入れて、隙間を保って! 顎を引かないで!」
透の目が、美月のいる方角を探す。
白目には細い血管が浮き、唇は青く変わり始めている。
喉から、声にならない空気が漏れた。
「扉を外す」
美月は蝶番を指した。
「錠前を壊すより早い。上と下、二か所。固定芯を抜いて」
悠斗が工具箱を引き寄せる。
朔は消火器を捨て、金属棒と大型のドライバーを取った。
扉の蝶番には赤錆が厚くこびりついていた。朔が上側の隙間へドライバーを差し込み、悠斗が工具の柄で下から叩く。
がん。
がん。
重い音が廊下へ響く。
芯は動かない。
「もっと強く!」
美月が命じる。
「分かってる!」
悠斗は汗と雨で濡れた髪を額へ貼りつけ、何度も工具を振り下ろした。
録音機の回転音が速くなる。
からからという乾いた音が、甲高い唸りへ変わっていく。
透の身体が録音機の方へ引かれた。
机の角に腰がぶつかり、古い操作盤が揺れる。針式の計器が振り切れ、赤い警告灯が連続して点滅した。
澪は割れたガラスの縁へ指を掛けた。
金属網が掌へ食い込む。
「透、こっちを見て」
彼の顔が僅かに動いた。
「すぐ開くから。もう少しだけ耐えて」
透は何かを伝えようとした。
唇がゆっくり動く。
声は出ない。
澪は口の形を追った。
う。
し。
ろ。
「後ろ……?」
透の指がガラスへ伸びた。
机から手を離したため、身体が大きく傾く。それでも片手をこちらへ向け、指先を押しつけるように広げた。
澪も反射的にガラスへ掌を重ねた。
網と亀裂を挟み、二人の手が向かい合う。
透の唇がもう一度動く。
うしろ。
澪は振り向いた。
廊下には、朔、悠斗、美月、奈々香しかいない。
シャッターの向こうまで伸びる暗い床。
壁へ斜めに差す懐中電灯の光。
非常灯の緑。
ほかには何もなかった。
「誰もいない」
奈々香が息を震わせる。
「透、何を見てるの?」
澪が再び放送室を見る。
透のすぐ後ろに、制服姿の少女が立っていた。
いつ現れたのか分からなかった。
濡れた黒髪が顔を覆い、制服の袖から白い手が伸びている。右手首には赤い組紐が巻かれていた。
少女は透の背後から身体を寄せ、両手で彼の耳を塞いでいた。
透はその存在を振り払おうとしない。
むしろ、声を聞かないように必死で耐えている人間へ、少女がさらに蓋をするように見えた。
「澄花……?」
澪の声が漏れる。
少女が顔を上げる。
髪の奥にある目は見えない。
けれど、澪へ向けて首を振った。
一度。
ゆっくりと。
その瞬間、透の首へ巻きついたテープが強く引かれた。
身体が後ろへ反り、喉から潰れた音が漏れる。
「急いで!」
美月が叫ぶ。
上側の蝶番の芯が、ようやく数センチ浮いた。
朔が工具を差し替え、全身の力で押し上げる。
錆びた芯が外れ、床へ転がった。
「下だ!」
悠斗がしゃがみ込み、下側の蝶番へ金属棒を当てる。
美月は扉の隙間から透を見つめ続けていた。
「透、意識を保って! 私の声を聞いて!」
透の目は美月へ向かない。
少女に両耳を塞がれ、何も聞こえていないようだった。
指先がガラスから滑る。
爪が網へ引っかかり、一本ずつ外れていく。
澪は割れた穴へ腕を入れようとした。
金属網が袖を裂き、皮膚へ痛みが走る。指先は透まで届かない。
「透!」
呼びかけにも、彼は反応しなかった。
首のテープは皮膚へ深く沈み、黒い帯の下から血が細く流れている。血は鎖骨を伝い、黒いパーカーへ吸い込まれた。
少女は両手で透の耳を塞いだまま、唇だけを動かした。
澪には、その口の形が見えた。
聞かないで。
何を。
誰の声を。
問いは声にならなかった。
「外れた!」
悠斗が叫ぶ。
下側の蝶番の芯が抜けた。
朔は扉の中央へ肩を当てる。
「下がれ!」
全員が壁際へ退く。
朔が体当たりした。
一度目。
扉は錠前側で軋んだだけだった。
二度目。
枠から木片と錆が散る。
朔は呼吸を整える間もなく、三度目に全身をぶつけた。
蝶番を失った扉が内側へ傾いた。
錠前の周囲が裂け、折れた鍵ごと金属部品が外れる。
重い扉が放送室の床へ倒れた。
五人が中へ踏み込んだ瞬間、録音機の回転が止まった。
急に訪れた静寂の中で、テープが一本、床へ落ちた。
制服姿の少女は消えていた。
透は椅子の横へ崩れていた。
美月が真っ先に駆け寄り、首へ巻きついた磁気テープへ指を掛ける。
「鋏!」
奈々香が救急鞄から医療用の鋏を探し、震える手で渡す。
美月はテープを二か所切断し、首から外した。黒い帯の下には、細く深い圧迫痕が何重にも残っている。
透の頭を床へまっすぐ寝かせる。
気道を確保し、頸動脈へ指を当てる。
「透」
呼びかけながら瞳孔を確認する。
胸へ耳を近づける。
澪は数秒がひどく長く引き伸ばされるのを感じた。
美月の指は動かない。
その横顔から、医師ではなく、八年前に同じ部室で笑っていた少女の色が抜けていく。
やがて、美月は静かに首を振った。
「亡くなってる」
奈々香がその場へ座り込んだ。
「嘘……さっきまで喋ってたのに」
悠斗は壁へ手をつき、何度も息を吸った。喉が鳴るだけで言葉は出ない。
美月は切り取ったテープを床へ置き、透の両手を確かめた。爪の間には黒い磁性粉が入り込み、指先の皮膚は何かを必死に掻いたように裂けている。だが、首の後ろに重なった輪は均等で、自分の手だけで巻きつけたとは思えないほど整っていた。
「機械に引かれただけじゃ、こうはならない」
美月の呟きに、悠斗が顔を背ける。
放送卓の脇には倒れた椅子があり、その脚元へ濡れた跡が二つ並んでいた。上履きの踵に似た小さな跡は、透の背後で途切れ、そこから先には続いていない。朔が光を当てると、水は赤錆を含んで鈍く光り、やがて床板の隙間へ吸い込まれた。
朔は透の身体から視線を外し、室内を確認した。
扉の錠は確かに内側へ回されている。折れた鍵の先が錠前の中へ残り、外から開けられない状態だった。
窓には厚い鉄格子があり、内側の錠も閉じている。遮光幕の裏には埃が積もり、最近動かした跡はない。天井の点検口は小さく、人間が通れる幅ではなかった。
部屋にいたのは、透一人だけだった。
少なくとも、今は。
澪は録音機の前へ落ちている黒いテープを見た。
リールから外れた端は床を這い、透の首元まで続いている。誰かが手で巻きつけたなら、その者はどこから出たのか。
録音機の再生ボタンは、押し込まれたままだった。
澪は赤い表示灯へ目を向ける。
消えている。
放送室には、美月の押し殺した呼吸と、奈々香の嗚咽だけがあった。
朔が透の録音機を拾う。
画面には、受信した八分十三秒の音声が開かれていた。再生位置は最後で止まり、波形の末尾に、一本だけ異様に高い山が立っている。
「触るな」
悠斗が掠れた声で言う。
「もう何も再生するな」
朔が答える前に、背後で機械音がした。
かちり。
誰も触れていないオープンリール式録音機の再生ボタンが、さらに深く沈んだ。
停止していた二枚のリールが、ゆっくり回り始める。
黒いテープが、透の首から外された切れ端を引きずりながら巻き取られていく。
から。
から。
回転は次第に速くなった。
赤い録音表示灯が点灯する。
スピーカーから、先ほどまでなかった音声が流れた。
暗い放送室で、六人分の呼吸が重なる。
澪。
朔。
美月。
悠斗。
奈々香。
そして、床へ横たわる透。
死んだはずの彼の喉から、細く震える息が聞こえていた。
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に